top of page

部活動の歴史

オンライン130年史では、部活動の歴史をめぐる寄稿を募集しています。

初の寄稿は、50年前に現在の野球部(3代目)を興した78回生の川村益昭さん。

「清陵に野球部はいらない」という逆風の中で、グラウンドもボールもない同好会から立ち上がった、涙と笑いと感動の物語。

二度の廃部乗り越え復活 諏訪清陵高校野球部
50年の足跡と目指すもの

川村益昭(78回生)

え、ウソだろ!? ホント!? まさかこんな日が来るとは…! しかもこんなに早く!1996年7月28日、夏の高校野球選手権長野大会決勝戦、創部22年目の清陵は東海大三(現・東海大諏訪)との決勝戦にまで上り詰めた。勝てば清陵は初めて甲子園に行く!いつこんなに凄い野球部になったんだ? 甲子園行ったら応援団どうする? あの校歌…歌う!? お金どうする?後援会ないし! 野球部OBはもちろん、清陵OBたちもドキドキワクワク大騒ぎになった。

(実況)

さあ、どちらが出ても甲子園は初めて…得点は3対1 

東海2点のリード

9回裏 カウントは2アウト 2ストライク3ボール

東海のピッチャー長坂  諏訪清陵最後の攻撃 

さあ15番、背番号15番 (清陵)植松徹二 強い気持ちで強いきもちで!

マウンド上の長坂秀樹、 初めての甲子園まであとワンアウト!

投げた 外角に入る球をバッター植松、思いっきり振って 

スイングアウトの三振 スイングアウトの三振!!

マウンド上で雄叫びは長坂――! 清陵植松ッ、天を見上げたー

東海大三おめでとう、初めての甲子園3対1です、

諏訪清陵を下しました、初めての甲子園は東海大三―――――

(清陵4番)松倉、松倉が泣きながら挨拶をしています、

君には来年がある 来年があります、

そして三塁側、(清陵ナインが応援席に向かって)本当に今まで応援

ありがとう、と一礼をしました

東海大三よりも大きな拍手が三塁側から起こっています!

(解説)

すばらしい試合でしたね、そうですね、両方とも似たようなチーム. でね、

また内容が素晴らしい試合でした。本当に両校ともにね、

光り輝いてましたね。

初の甲子園出場は次回以降への持ち越しとなった。それでも薄いブルーに漢字で諏訪清陵と書かれたユニフォーム姿の選手達はグラウンドで確かに輝いていた。

清陵130周年−野球部50年=80年 この80年間、清陵には野球部がなかった…!? わけではない。明治28年(1895年)、のちの諏訪中学が創立されたその4年後、第一期野球部は創設されている。が、27年間の活動ののち、大正15年(1926年)、一度目の廃部となる。スポーツは一部の学生たちだけがやるものではなく、広く全学生たちの健康のために資するべきであり、特に野球は広いグラウンドを占有するし、しかも金食い虫であり、県外へ遠征してまで野球をやるなどいかがなものか、そのような勝負にこだわってまでやる必要はない、というのが当時の学友会が主張した廃部理由のようである。その後にも何とか野球をやりたいという学生達もいたようで、やがて昭和22年(1947年)第二期野球部が立ち上がった。が、わずか4年後、もう一度廃部に追い込まれてしまう。清陵らしいといえば清陵らしい。だが大切なことは清陵に入学する生徒は野球をすっぱりとあきらめなければならないのか?否か?こうした過去を背負ながら、どのようにして清陵高校の中に野球が根付くことができたのかを50年の節目に記録させていただくことにした。

 

50年前、諏訪地方では女子校である諏訪二葉高校と岡谷東高校を除けば、清陵にだけ野球部がなかった。だからいくら中学校で野球をやっても、清陵に進学する生徒は「野球を諦める」という選択肢しかなかったし、それがごく普通で当たり前のこととして受け入れられていた。今回多くの野球部員から話を聞いたときに驚いたことがある。高校でどうしても野球をやりたかった者は清陵を選ばず野球部のある別の高校を一度は選ぼうと試み、悩んで考え抜いた挙句、もしくは自らを説得し、清陵に入ったという人達がたくさんいたことだ。だからタイミングよく清陵に野球部ができた時、それらの人達はよろこんで飛び込んできた。たとえそれが不自由な環境下の野球部であっても。

さあ第三期野球部の立ち上げだ とゆきたいのだが、その前にひと悶着ある。その始まりとなる一件を述べないではその先に進めないので、恥を忍んで少し書くことにする。

1972年6月某日、清陵入学後のある昼休み時間に私は校長室に呼び出されていた。父親も来るようにということで二人して校長と対面していた。

(校長) 川村君、君は一体何を考えているんだ。

     野球をやりたいから清陵をやめるなど聞いたことがない。

     だめだ。

(私)    僕はその約束で清陵を受けて入ってきているからやめるのです。

(校長) そんな約束があるか。そんなに野球やりたいんなら、

     東大に行ってやれ。あそこなら高校でやってない奴がたくさんいる。

     そんなにやりたいなら東大へ行け。清陵を辞めるなんてダメだ。

えらく怒られた。私のこんな行動を止めなかったということで、中学校教師であった父親も怒られてしまった。申し訳なかったと思う。私は頭の中が真っ白になっていた。その約束は中学校の担任と交わしていた。「とにかく清陵を受験する。1学期終わりでやめて(野球のできる別の高校へ)転校してもいい。だからとりあえず清陵は受験する」というものだった。入学してしまえば諦めるだろう、と思われていたのだろうが、こちらは約束が守られないのだから、本当に困ってしまっていた。父親を校門まで送ったときポツリと「ねーなら作っちまえばいいじゃねぇけ?」と父は言い、大根坂を下っていった。自分で言うのも何だが、私にとって『高校で野球をやりたい』と言う気持ちは外すことのできないものだった。

立ち上がれ清陵健児! 野球部復活を目指す!! と銘打ったビラを、校長に叱られた翌年4月1日朝、校門入り口で登校する新入生に片っ端から手渡ししていた。家にあったガリ版印刷機で印刷し、まっさらな新入生とこれをやろうと考えた。まず同好会からスタートする。「野球をやりたいものは本日学校終わりで校庭に集まれ」と書いた。その日、授業終わりの校庭には10人超の1年生が集まってくれていた。この中で最後まで残ってくれたのが初代野球部員となる小口修平(故人)、窪田好美、清水幸次、松澤和文、浜好治の5名である。

同好会初日 何はともあれ練習を始めることにする。ユニフォームはない、体育のジャージ姿、グラブは軟式用、他にあった道具はどこかで拾った硬式ボールひとつ、それに軟式用バット1本。「清陵―――ファイト、オゥ」と走り出した。周りにいた清陵生たちが一斉に好奇の目を私たちに向けたのを覚えている。何しろ清陵に野球はないのだから「ありゃなんだ?」は当然の反応だ。校庭の片隅でトスバッティングを始めた。軟式用バットはあっという間に粉々に割れ使い物にならなくなった。やはり軟式バットでは硬式球は打てない・・・、こんな初日だった。その数日後、折れない竹バットを一本買ったと思う。お金はおそらく小遣いから調達した。

練習グラウンドのない同好会 どこで練習しようかと考えた挙句、「市営グラウンド」を無断使用することにした。学校のグラウンドはサッカー部が使用するため我々は使えない。そこで諏訪市を本拠地とする強豪社会人野球チーム三協精機が練習する「市営グラウンド」をゲリラ使用することにした。授業が終わると各々自転車やバイクで乗り付け、キャッチボールしたり、トスバッティングを始めたり……すると、「オメーたちはどこの奴らだー!」と練習にやってきた三協精機軍団に怒鳴られ、「すいませーん」と、一目散に退散する…日々だった。唯一良かったのは、場外に出たホームランボールをいくつも草むらで拾えたこと。かなり汚れてはいたけれど、10球、20球くらいは調達できた。その年の夏休み、全員でアルバイトをして軍資金を作った。アルバイト代の7割を同好会へ拠出し、ファーストミット、キャッチャーミット、折れない竹バットなど揃えたけれど、ヘルメットには手が回らなかった。何一つままならない一年が過ぎた。

このままじゃダメだ  ゲリラをずっと続けることは難しく、同好会では学校とつながりがない。誰も気に留めてくれない「野球好き集団」では孤立無援のまま目標も持てないと思い、強引ながら、学友会に部への昇格を願い出た。部として続けてゆける確信はないものの、早くしないと野球部の火すら消えてしまう恐れがあった。そんなことを考えていた1974年6月のある日、市営グラウンドゲリラをしていた私たちの前に一人の小柄なおじさんが現れた。ノックバットを1本ヒョイっと背負い、「オメー達か、清陵で野球やってるっつうのはー?俺が監督やってやろうかぁ?」 「ハイーーー、そうです。エ、ホントですか!!」 この方が初代清陵野球部監督となる吉川光岳さん(故人)だった。それはそれは嬉しかった。これでやっと部に昇格してくれ!と堂々と言える。遅くとも来年には公式戦にも出場できるはずだ、と確信した。

第三期清陵野球部復活の日  校舎西にある学友会館で学友会生徒数名と私は向き合い、「正式に野球部を認める」と回答を得た。ただし、厳しい条件が3つつけられた。

 ①学校のグラウンドを練習に使用してはならない

 ②年間予算は5万円

 ③応援団、ブラスバンド、後援会を要請しない

同好会から部へ名称が変わり、予算が付くという2点を除けば、環境はさほど変わらない。野球部になれるならどんな条件でも呑む、と言ってはみたが、野球部初代以降のメンバーには、この条件がその後も長くのしかかることになってしまった(誤解なきよう、部に昇格してくれた学友会には深く感謝している)。

ゲリラからジプシーへ  茅野市にある「ハイトスポーツ」店主であった吉川監督はまず練習場所探しに手をつけ、茅野高校、諏訪実業のグラウンドで合同練習できる形を作ってくれた。その日その日で使えるグラウンドを渡り歩く清陵野球部はそれですっかり有名になり「ジプシー野球」というありがたくない名前をいただいた。その翌年1975年春、清陵野球部は念願の高等学校野球連盟に25年ぶりに加盟し、初の公式戦、春の北信越大会長野大会に登場する。対飯田工業戦。6-1で公式戦初勝利を挙げた。その2ヶ月後、早くも夏の選手権大会を迎える。初代5人にとっては早くも最後の公式戦ということになる。初戦の相手は東海大三、練習試合ではコールド負けした相手。が、本戦では清陵が意地を見せ2-3の接戦を演じたが惜しくも敗れた。こうして初めての夏は終わる。初代5人のうち3人はその後も教員として他校の野球に関わったり、母校清陵野球部を支え続けた。

監督問題がくすぶる  ジプシーしながら活動を開始したその裏で、まだ一つ未解決問題が残っていた。監督は清陵の職員でなければならない、という問題だ。それに手を挙げてくれる職員が清陵に一人もいなかった、のだ。その年茅野高校から赴任してきた清陵OB小菅重男校長はその解決を迫られていた。ただでさえ大変な野球部監督なのに、これだけ困難を抱える野球部の監督など誰も引き受けたくない、という気持ちもわかる。ましてや、野球部を快く思わない風潮が根強く残る環境の下ではまさに野球部監督は「火中の栗」だ。そんな折、小菅校長から一年遅れて同じ茅野高校から渋谷博光氏が清陵に赴任してくる。小菅校長とは気心が知れている。小菅校長は赴任前面談で「野球部監督を引き受けてくれる職員が誰もいなくて困っている」と渋谷さんに打ち明けた。すると渋谷さんはその場で「私でよかったら、やってもいいです。」と予想外の言葉を返した。柔道一筋、野球の経験などない。だが、野球の監督になんとなく憧れみたいなものがあって…思わず言ってしまったと言う。「じゃあ、頼む」小菅校長は頭を下げた。野球部が正式に学校の一組織として組み込まれた瞬間だ。そういえばこの校長室でひどく叱られたのは2年前、同じ場所でこの日は野球部の職員監督が決まった。ものごとが動くためには「時」と「そこに居合わせる人の縁」が絶対必要なんだなと思った。茅野高校からのお二人のマッチングは本当に幸運だった。後日談だが小菅校長はかつて清陵の学友会長を務めていた当時、野球部廃止を強行に唱える張本人だったそう。だがこの日以降、野球部を応援する側に回った。その後も陰に日向に野球部を気にかけてくれた。後に「あの時は野球部に猛反対したことへの罪滅ぼしみたいな気持ちだった」と言っていたそうだ。

黎明期  まさに清陵野球部が大きく動き出す。が、現実を見ればまだ道具も満足に揃っていない。ヘルメットは4つしかなかった。満塁になると、ネクストバッターボックスの選手はかぶるヘルメットが無かった。まるで笑い話だ。特に練習ボールは決定的に足りなかった。他チームに、試合球1ダースを持ってゆき練習球3ダースとの交換を頼んだこともあった。ないものをどう補うかという戦いが続く。数年後、学友会が少しだけ部費を上げてくれた。それでも10万円以下だったが、有り難かった。渋谷さんは「自分は野球育ちじゃなかったからよかった。もし経験者だったら『こんなんじゃやってられねぇ』とサジを投げていたかも知れない。柔道経験しかなかったから逆によかった、こんなものかと思えたから。だから生徒たちに言い続けたのは、この条件の中でやってみせるのが清陵の野球だ! 25年ぶりにやっと立ち上がった野球部、その思いを大切に伝え続けなければ…という思いで必死だった」と振り返る。

光沢 毅さん そんな窮状を外から見ていてくれた人がいた。諏訪市を本拠地とする社会人野球三協精機監督、光沢毅さんである。1954年第26回選抜高等学校野球大会に飯田長姫高校(現・飯田OIDE長姫高校)で投手として初出場し初優勝をなし遂げ、「小さな大投手」の異名をとった方だ。知り合いだったわけではないが、渋谷さんによくこう言っていたそうだ。「清陵にはそれなりの選手が来ている。清陵が強くなれば諏訪が強くなる。諏訪が強くなれば長野県が強くなる。だから頑張れ」。清陵に諏訪の象徴的野球部になれと励ましてくれていた。今で言うなら、清陵野球をブランドとして見てくれていた。それだけでなく時々、自分のチームで使い古したボールやバットを譲ってくれた。練習を早く終えた時には「使っていいぞ」と自分たちのグラウンドも使わせてくれた。

念願の夏1勝を挙げるのは1978年、創部から4年待たねばならなかった。対望月高校に2-0で勝利する。「1点リードの9回表、鷲沢(わしざわ3年)が3ベースヒットで出てね、リードでっかくとって盛んにピッチャーをかまうわけさ。ベンチじゃ俺たち、リードしすぎだ、戻れ戻れって叫ぶんだけど、やめないんだよ。それで遂に相手のピッチャーが牽制悪送球しちゃってさ、3塁から鷲沢がホームインして2-0。勝った瞬間俺たちも監督も『ワーーー』って言っちゃって大喜びしたよ、嬉しかったなー」と当時4人だけだった3年生は思い出すそうだ。渋谷さんはこの時のことをこう表現した。「四人しかいない3年生、少人数で暑い夏合宿やら頑張ってましたから、この一勝は神様のプレゼントだと思います」。

2507.jpg

鳥かごを作る 清陵が初めて夏1勝したその年、何かと助けてくれた三協精機野球部が活動休止になった。「室内練習場のネットが不要になったから持っていけ」と連絡がきた。ありがたく譲り受けた。これを練習に使えないか。野球部の皆で考えて『ネットで囲まれた練習場』を作ろうと言うことになった。場所は現校舎の駐車場のあたりの三角地帯。そこに縦22メートル、幅15メートル、高さ3メートルの通称『鳥かご』と呼ばれる練習場を作った。4本の柱を立てる穴は野球部員が掘った。大会が始まる5月頃まで土方作業をやっていた。費用は学校の事務長が工面してくれた。ここにきて初めて自分たち専用の練習グラウンドができた。この鳥かごで、念願だった思い切りバットを振るバッティング練習ができるようになった。平日はこの鳥かご内でバッティングと周辺でのサーキットトレーニングが中心で、野球の練習といえば練習試合とグラウンドが使える限られた時だけだった。

C.jpg

鳥かごを中心にサーキットトレーニングする野球部員

初のベスト8へ 鳥かごの中では二人同時に打撃練習ができる。おもいきりボールを打つことが

できる。それ以外の選手たちはグラウンド周りを走る、ネットに向かってティーバッティングする、「素振りに空振りなし」と実戦をイメージした素振りをひたすら繰り返すサーキットトレーニングの毎日だった。広いグラウンド練習では起こりがちな休んでいる時間を徹底的に排除して、練習の

中身を最高に濃くする工夫をした。このおかげもあって野球部7年目、清陵は夏の大会で遂にベスト8まで勝ち上がる。強豪・天竜光洋高校(現・松川高校)を破ってのこと。新聞も大きな見出しで載せてくれた。「のびのび野球」とキャッチフレーズをもらった。しかし周りは不思議がった。なぜ鳥かご練習だけでベスト8になれたのか?そう、鳥かご練習だけでは絶対にカバーできないことがある。それは広い場所でしかできない練習、『空間でボールを捉え、そのボールを遠くに飛ばす感覚の練習』が必要だった。そこで、大会が近づくと校舎グラウンドに早朝集合し、生徒が登校するまでの間、集中的なバッティング練習をした。実際にピッチャーが投げる球を空間で捉え、生きた球、向かってくる球を打ち遠くへ飛ばす感覚をつかむ練習を積んだ。ただし使ったのは軟式球だ。硬式のボールが民家を直撃したら大変なことになるし、打つ時の金属音も近隣迷惑になるから。しかし、早朝に軟式ボールでは球の回転が見えな

延長12回 天竜光洋を破り初のベスト8

い。ここで一工夫、ボールの縫い目の部分をマジックで黒く塗った。こうすれば球の回転も見える。ないものをどう工夫で補うか考える、これが清陵野球の宿命だった。余談だが、ベスト8決定後、敗れた天竜光洋高校から何本かのバットが清陵にプレゼントされた。清陵の窮状は随分と知られていたようである。

IMG_2256_edited.jpg

新校舎と新グラウンドが平成元年完成した。待ちに待った広い練習グラウンドがやっとできた。そこに同年、先に述べた夏の大会ベスト8メンバー茶城啓二氏が清陵野球部に第6代目監督として戻ってくる。それまでに県のベスト4に二度も進出していた清陵だったが、茶城監督を驚かせたのはまさかの練習ボールの不足だった。あったのはわずか28球。監督の初仕事は練習ボールの確保だった。社会人チーム、プロチームを回り約1,000球を集めた。ホームランで場外に出てしまったボールは草むらを全部踏みつぶしてでも探し出した。15年目ですら清陵野球部の予算と言う課題は深刻だった。その一方、周りが清陵を見る目は少しずつ変わってきていた。県大会で活躍する清陵の姿を見て、光沢毅氏が見通していたとおり、清陵で野球をやりたい「それなりの選手達」が集まり始めていた。校舎グラウンドでの練習も許可され、練習環境の劇的改善も強い後押しとなり、『清陵で野球をやりたい』と入学してくる生徒達が増え始めた。中には浪人して入部してくる生徒もいた。いよいよ強い清陵の時代がやってくる。

IMG_2299.jpeg

平成元年 新校舎グラウンド完成

IMG_2293.jpeg

平成18年 ハウスと呼ばれる室内練習場完成 鳥かご二つ分の大きさ

IMG_2272.jpeg
IMG_2258.jpeg

2台のバッティングマシンで自由に自主練習が可能に

ピッチング練習場 1球1球スピードガンで球速をチェックする

清陵らしい野球部 平成5年、茶城監督6年目、ついに清陵は春の北信越大会で県大会準優勝し、北信越大会へ駒を進め、そこで1勝をあげる。ライバル東海大三も松商も撃破してのことだ。・・・と表は華々しい、が、その裏にはこんな厳しさもあった。大会で遠征できる選手はベンチ入り20人だけ、それ以外の部員は遠征を許されず、学校で授業を受けることが求められていた。テレビでよく見る光景はベンチ入りしない選手はスタンドで応援の指揮をとることが多いのだが、清陵はそれが許されなかった。いかにも清陵らしいエピソードである。『清陵80年史』に目を通してみると、最初の

夏の大会で二度の準優勝。甲子園出場は目前だった

廃部理由の一つに、県外まで行って試合する必要はなく、近隣の高校と試合をするだけで十分である、とある。まさかとは思うが、こういった過去の経緯を多少なりとも引きずっていたのかもしれない。話を戻すと、それならば、なんとか試合の熱気を諏訪にいる選手達にも味わわせたいと考えた茶城監督は一計を案じた。その試合の実況アナウンサーに頼みこみ、ご本人の練習用として録音した実況カセットテープを借りて学校に持ち帰り、全員でそれを聞いて喜び合ったのだ。野球をやる、そして勉強もやる、俺たちは特別じゃない、という姿勢を意地でも守る、それが清陵野球部のあり方だから。その3年後、平成8年、甲子園出場をかけた夏の選手権大会決勝に初めて進んだ。冒頭に書いたあの試合だ。清陵に関わる人、広く諏訪の人たちも球場やテレビの前で大歓声の応援をしたあの夏を迎えたのだ。その日は幸運にも日曜日、スタンドには堂々と応援に来た生徒達がぎっしり陣取り、声を限りの応援と、「我らのあの校歌」を歌っていた。もはやかつての野球部vs学校・学友会という構図は見当たらない。この頃から、「あって当たりまえの野球部」になった。

県下の強豪校 野球部が20代目を数えるあたりでは清陵は県大会の常連、いや強豪校の一つに数えられる存在になった。県大会で強豪私立を打ち破る清陵の姿は、それを目にした中学3年生たちを『清陵で野球をやりたい、だから一生懸命に勉強して清陵に入るんだ』と惹きつけた。第7代目監督となった小笠原健一監督の時代はそれが一層加速した。二度目の夏の大会準優勝や春・秋の北信越大会出場はじめその活躍に入学希望者は松本、佐久、上田からも集まり、下宿して清陵に通う野球部員もいた。本気で甲子園に行きたいと生徒たちは思っていたし、周りもそれを期待した。猛練習に支えられた強豪野球部に、この時清陵はなっていた。

甲子園出場と勉強と高校生活と 

今は強豪校のイメージから遠のいてはいるものの、清陵のような高校で野球をやる以上は、「甲子園出場」「勉学」「高校生活」という課題に向き合わざるを得ない。どれ一つをも犠牲にしない配分が重要になる。今、第10代目監督としてそのサジ加減を任されている守屋監督は清陵で野球をやるにあたりこんな方針を立てている。

『やる以上は甲子園に行きたいけれど、甲子園がすべてになってはいけない。勉強時間がなくなるような長時間練習はしない。それらの調和が大切だ。実際のところ練習、勉強、それに学友会活動を並行してやる生徒もいる。東大で野球をやりたいと文武二刀流に挑む生徒もいる。日曜日に英検の試験があれば平気で「明日休みまーす」と練習試合も休む。それでいいと思うし、部活動を通して親御さんに清陵で野球やって良かったな、と言ってもらえる野球部にしたいと考えている。この2年間で県ベスト8に2回進出という成果も出すことができている、が一方ベスト8の壁にぶつかっているとも感じている。今後も改善と調和を目指し、すべての清陵OBに愛される野球部を作るという基本精神で生徒たちには心に響く指導をしてあげたい』。

何のために勝ちたいのか? こう言っている監督もいた。「清陵は甲子園を目指すためにやるのではなく勝利を目指す。ただ試合すればいいと言うものではなく試合をしたら勝ちたい。だからやる以上は勝たせてやりたい。それは、勝負が一つで終わると一場面しか思い出がなくなる、しかも負けた思い出だ。勝つと思い出が二つ三つと繋がってそれだけ人生が豊かになる。思い出の場面は多い方がいいからね」

同じ志を共有すること 今年2025年3月末のある日、校舎グラウンドで野球部員達が胴上げをしていた。されているのは大学受験を終えて進路を報告に来た3年生達だ。胴上げが終わると今度はその3年生が最後のノックを1、2年生にする。いつの間にかこの胴上げと最後のノックは野球部の伝統になったようだ。貴重な3年間、同じ志を持った仲間たちと同じ時間を共有してきた部員のこの伝統を見ていて、爽やかで素敵な光景だなと感じた。今や環境は整った。野球部のみんなには思い切り思う通りに精をだして私たちをまたワクワクさせてほしい、清陵らしく・・・。

IMG_2413.jpeg

進路が決まった先輩を1、2年生が胴上げで祝福する

終わりに 書ききれない部分を多々残しながら駆け足で清陵野球部の50年を振り返ってみました。二度の廃部を経験するという変わった歴史を持つ野球部だけれど、それを克服する過程で自然と清陵魂みたいなものが生まれ、それが着実に後輩達へと受け継がれているからこそ三度目の悲劇を起こすことなく50年を刻めた、と思う。もちろん清陵野球部の困難な時期を善意で助けて下さった方々、応援してくれた方々の支えがあってのことであることは言うまでもない。この伝統を頭の片隅に今後も清陵の野球を見せてほしいと願っている。

bottom of page