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諏訪清陵高等学校130年史

※現時点での掲載はここまで

第2編 各論

第1章         データ分析:SSHと中高一貫教育による変化

第2章-1      SSHの取り組み 2002~2016

第2章-2      SSH認定の変遷・実績・展望 2002~2025

第3章        (未完)中高一貫教育の取り組み

第4章        (未完)同窓会の取り組み

第5章        (未定)新聞でたどる生徒の活躍

第3編 寄稿

はじめに Web版校史公開にあたって

石城正志(78回生)

​ 旧制諏訪中学校・諏訪清陵高等学校130周年記念事業のひとつとして130周年史の編纂を行うこととなったが、本校の歴史については、『清陵八十年史』と『写真でつづる清陵の百年』という2つの立派な刊行物があり、『写真でつづる…』には1995年(平成7年)の創立百周年記念行事についてのまとめ(「(3)百年の歴史を刻む」)までが記述されている。

 このことから、同窓会からは、あらためて130周年の歴史を記述し直すのではなく、1996年(平成8年)から130周年にあたる2025年(令和7年)までの本校の歴史をまとめることを求められた。

 では、この間に本校に何が起きたのかと言えば、この間に本校はスーパーサイエンスハイスクール(SSH)となり、中高一貫校となった。しかし、それを本校が順風満帆に発展してきた歴史として記述することは適当ではない。

 あまり知られていない話だが、2000年代(平成10年代前半)に本校は長野県初の公立中高一貫校となるはずであった。しかし2000年(平成12年)に登場した田中康夫知事の意向で計画は頓挫した。2002年(平成14年)にSSHが導入されたのは、中高一貫校の代替え措置という側面があり、当時の関係者のなかには、「SSHは、いずれあらためて中高一貫校となるまでのつなぎ」と考える人もいたようである。

 では、なぜ本校は先ずは中高一貫校を目指し、その挫折のなかでSSHに名乗りをあげ、再び中高一貫校への道が拓けたとき、あらためて踏み出す選択をしたのだろうか。

 1989年(平成元年)に現在の高校校舎が完成する。「オンボロ校舎」で有名な二代目校舎を取り壊し、現在の校舎を新築することにより、本校は次の時代を迎えるためのインフラを整えた。では、その新校舎建設を契機として本校は順調に発展することができたのだろうか。

 1995年(平成7年)度から1997年(平成9年)度まで学校長であり、その後、同窓会長もお勤めになった松下勲氏(59回)にお話をお聞きすると、当時の本校は、あらゆる面で進取の気風に溢れ、活気に満ち、順風満帆であったという。

 例えば、1995年(平成7年)年4月に中澤延子氏が、県下初の女性教頭として着任した。その翌年の1996年(平成8年)度には、河野泰弘君(102回)を、全盲の生徒としては県下初の公立高校生として迎え入れる。その7月には野球部が夏の甲子園大会長野県大会で準優勝し、8月には端艇が女子ダブルスカルで高校総体2位に輝くなど部活動も目覚ましい活躍を見せた。卒業生でも、1997年(平成9年)に上原三枝さん(93回)がスピードスケートで長野オリンピック出場している。

 この間、同窓会でも、1995年(平成7年)のトレーニングルームの寄贈、1997年(平成9年)のクラブ活動後援会基金の創設、道志社記念碑の移築改修および供養法要(以後「道志社先輩、並びに物故会員慰霊法要」は毎年行われるようになる)の開始など活発な活動を行っている。

 施設設備面でも、1996年(平成8年)に第2グラウンドを取得し、1997年(平成9年)にプールが完成するなど、益々充実した学校環境となっていく。

 生徒の進学実績も目覚ましく、1995年(平成7年)度(1996年3月卒業)の現役生徒の大学進学率は60%(県下1位)、1996年(平成8年)度(1997年3月卒業)の現役生徒の大学進学率は64%(県下2位)で、充実した学習環境のもと、高いレベルで文武両道を実現していたことが伺える(この間の事情については、校長としての松下勲氏の寄稿文に詳しいので、そちらを参照していただきたい)。

 しかし、この何の憂いもないように見える状況の裏で現在に続く諏訪圏域の中学生の「流出」がはじまっていた。「流出」が原因の全てであるかどうかは別にして、1998年(平成10年)度(1999年3月卒業)の学年では進学率が急落し、2000年(平成12年)度(2001年3月卒業)、2001年(平成13年)度(2002年3月卒業)度の学年では、ついに東大現役合格者が0名となってしまう。

 本校に課された使命を「諏訪地域の最優秀の中学生を集め、諏中・清陵の伝統のなかで学力的にも人間的にも逞しく大きく成長させ、将来を担う若者として送り出す」ことであるとするならば、その根幹を揺るがしかねない問題が「流出」であり、そしてそれは、創立100周年を祝う高揚感のなかで静かに始まっていたのである(このことについては、第2章であらためて触れたい)。

 そのように考えると、「流出」問題の解決策として指向されたのが「中高一貫教育」であり「SSH」であったというマイナスの言い方も出来るが、同じことをより前向きに捉え、「本校は旧制諏訪中学・諏訪清陵高校の教育の伝統を次の時代につなぎ発展させるために、SSHを導入し、中高一貫校化を果たした」と言い換えることもできる。従って、1996年(平成8年)から、附属中学校が10年目を迎えた2024年(令和5年)、さらに創立130周年を迎えた2025年(令和6年)までを、ひとつながりの歴史として記述することには十分な意味があると考える。

 そこで本稿では、先ず第1編として「校史1996 - 2025 中高一貫教育とSSH ― 挑戦と挫折からの達成」をひとつの流れとして記述する。

 次に第2編として、まず「データ分析:SSHと中高一貫教育による変化」を、生徒の進学状況の推移をたどりながら分析し、最後に2025年(令和7年)時点から振り返る。

 続いて、2002年(平成14年)から2025年に至るSSH事業の取り組みと変遷・実績・展望当事者の執筆により振り返り、最後に2014年(平成26年)に開校した附属中学校がどのような教育を目指し、どのような教育を行ってきたか、また中高一貫教育校としての高校がどのような改革を行って来たのかを記述する(未完)。

 さらに、この間の同窓会の取り組みと、新聞などに取り上げられた本校及び生徒の活動も紹介する予定である。

 また、通史的な記述だけでは、この間の学校の雰囲気や、在籍した生徒や職員の「思い」が十分に汲み上げられないことから、第3編では旧職員や各年代の卒業生、さらにはこの間の事情に詳しい方たちに寄稿していただくことにより、その空白部分を埋めたい。

 もうひとつぜひ、この校史でお伝えしておかなければならないことがある。それはこの130年史(平成8年~令和7年史)は印刷物として刊行されないということに関わる。印刷物としてまとめるならば、記述した内容はその時点で固定化され、変更不可な記録として未来永劫残ることになる。

 しかし、今回の130年史はオンライン上のデータとして保存・公開されることを前提に編纂している。ということは、公開後に間違いを指摘されたり、異論・反論があった場合には、その後の検証によって内容の変更が可能だということである。

 であるならば、調査したが分からなかったこと、調査そのものが不十分であったことについては、正直に「分からなかった」、「調べきれていない」と記述することにした。公開後に多くの方の目に触れることにより、間違いが指摘されたり、新たな情報が寄せられることにより、記述が改められ深められ、この130年史が充実し成長していくことを期待するからだ。

 ウィキペディアを御存じだろう。誰でも無料で閲覧できる世界最大のオンライン百科事典であることはよく知られているが、その執筆・編集が、インターネット環境があればだれでも出来ることはあまり知られていない。誰かがある項目を立ち上げ内容を記述する。すると誰かがその記述を修正したり、追加したりする。そしてそれは全ての人に開かれている。それが日々繰り返されることにより、誤りは正され、内容もより詳細になっていく。

 オンライン上の130年史が、本校にとってのウィキペディアとなることが、最初の執筆者である私の願いである。多くの同窓生・関係者の主体的な参加を期待したい。

第1編

第1章~第5章

担当 石城正志(78回生)

協力 小口雄策(88回生)、吉沢規至、高橋健美(86回生)、後藤愛也香(112回生)

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第1章~第5章

結語に代えて 山崎壮一氏と清陵人精神

石城正志(78回)

 校史を編纂するとは、教える側の論理や思いを綴ることだと気づいた。書けば書くほど浮かび上がってくるのは、教える側、与える側の姿で、対をなすべき、教わる側、受け取る側の姿は、書けば書くほど遠のいていくようだった。教わる側、受け取る側である生徒たちが、いったい何を学び取り、それを後の人生にどう生かしたのか。そのことについて書いておきたいと思うようになった。この「おわりに」で、ひとりの同窓生の生きざまを描くことで、皆さんと思いを共有できたらと思う。


 ご紹介し共有したい同窓生とは、山崎壯一氏(51回生)である。山崎さん(以下、親しみを込めて「さん」と呼ばせてもらう)は、今年96歳になる。山崎さんが何者か知らないという人がいたら筆者はいつも以下のように言う。諏訪湖の新作花火大会をはじめたのも、諏訪圏工業メッセをはじめたのも、経営不振に陥った上諏訪駅前の丸光デパートを買い取ってまるみつデパートとして再建したのも山崎さんだ、と。まるみつデパートはその後閉店し現在はアーク諏訪(すわっチャオ)となっているが、新作花火大会も諏訪圏工業メッセも形は変わったが今も続いている。観光、工業、商業すべての分野で、諏訪市は山崎さんの恩恵を受けた。いや今も受け続けている。


 山崎さんには三人の御子息がいる。長男の俊一氏(80回)は、時計、眼鏡、宝飾品販売のヤマザキの代表取締役であり国産初の体内植込み型人工心臓システムメーカーである株式会社サンメディカル技術研究所の取締役(社長を長く勤め退任)である。次男の健二氏(82回)は、北海道循環器病院先進医療研究所所長で、完全国産の植込型補助人工心臓「EVAHEART」の考案・開発者である。三男の泰三氏(83回)は株式会社ミスズ工業の会長である。
 池井戸潤氏の小説『下町ロケット ガウディ計画』は、東芝日曜劇場でTVドラマにもなり話題を呼んだ。そこに心臓に埋め込む人工心臓弁「ガウディ」を研究する一村という大学教授が登場し、その開発を佃航平率いる佃製作所が引き受ける。そのモデルが山崎健二氏とサンメディカル技術研究所である。小説では研究者と開発企業経営者の出自は別だが、現実世界では全て山崎家で賄っている。まさに事実は小説より奇なりだ。


 父親の久夫氏からヤマザキを引き継いだ壯一さんは、一代で全ての事業を立ち上げ現在は御子息にそれを引き渡した。かつてはホテル浜の湯も山崎家が経営するホテルであった。つまり、山崎壯一さんは、諏訪、長野県内にとどまらない実業界の大物、まさに立志伝中の人物だといえる。
 そんな山崎さんにインタビューをお願いしたところ、奥様の山崎澪子氏(56回)が亡くなられた直後にも関わらず快く応じて下さった。最初に、在校中はどんな生徒であったかと聞いてみた。ちなみに山崎さんは旧制の諏訪中学校に入学され3年間の中学生活を過ごされたあと新制高校が設立されたため諏訪清陵高校の1年から3年まで3年間の高校生活を過ごされている。そのことを山崎さんは、「自分たちは最初の中高一貫校経験者だ」とおっしゃる。


 どんな生徒でしたかという筆者の問いに対し、山崎さんは一枚の茶色く変色した葉書を取り出した。それは、中学1年時の担任であった細田輿先生から父親の久夫氏に宛てたものであった。万年筆の細かい字でびっしり書かれており筆者には読めない。何て書いてあるんですかと聞くと、「このままいくとあなたの息子さんは落第で2年に進級できない。」ということが書いてあるという。それでも山崎さんは進級したのだが、進級の条件として数学の補習授業を新任の宮沢秀治先生から受けることになったという。
 その後、担任の細田先生が体調を崩され、中学2年からは宮沢先生が担任となり、補習授業も継続したという。しかし、中学の3年間、高校の2年時まで全く成績は振るわず、最下位はなかったが常に学年のビリから10番以内という状態だったという。
 しかし高校3年生の時、山崎さんは一念発起する。成績不振の自分は大学に行っても仕方がない、高卒で就職するから、最後はやりたい勉強をやらせろと主張し、選択科目である英語を履修せず、数学を2科目履修させてくれるよう求める。数学2科目の一つ目は3年生が全員履修する「一般数学」で、二つ目は1年の時に落第して未習得であった「解析Ⅰ」を希望したという。これは職員会で大問題になったという。英語は選択科目だからといって履修しなというのは例がない。そもそも数学を2科目取ってどちらかを落としたら卒業が出来なくなる。ましてや「解析Ⅰ」は1年の時落第した科目である。教員たちはそれを心配したという。しかし、最後ぐらい好きな勉強をさせろと言い続ける山崎さんに根負けして認めたのだという。
 その1年間、山崎さんは、3年生が英語を履修する裏で1年生に交じって「解析Ⅰ」の授業を受けたという。試験は時間が重なったので、まずは「一般数学」の問題用紙に、答案の書き直しが出来ないように万年筆で解答してから、教室を移動して「解析Ⅰ」の問題に取り組んだという。結果は、どちらも合格。そればかりか他の教科も頑張った山崎さんは、最終的にクラス5番の成績で最終学年を終えたのだという。

 

 勉強以外の学校生活について聞くと、端艇漬けの毎日だったようだ。ただし、山崎さんはコックスの、しかも補欠で、マネージャーのようなことをしていたという。山崎さんの学年は強く高校1年生のときに2,3年生に勝ってしまう。そこで腕試しに県外の大会に参加しようということになったが、当時は県内唯一のボート部で、県予選を経ていないチームに県費から遠征費を出すことは出来ないと言われ、マネージャーの山崎さんが奔走する。アイスキャンディを父親の久夫氏の経営する大和工業に持ち込んで売り、その売り上げを遠征費として中部レガッタに出場したという。
 その頃の顧問は誰だったのですかと聞くと、ウシマサだという。ウシマサこと牛山正雄先生(38回)は、筆者の高校時代も端艇部の顧問だった。調べると復員して教員となった1947年(昭和22年)10月から1981年(昭和56年)4月に亡くなるまでウシマサは清陵高校の理科教員であり続けたが、同時に端艇部の顧問でもあり続けたわけだ。ウシマサが、新田次郎氏(本名 藤原寛人 31回)の、ビーナスライン建設反対運動を描いた小説『霧の子孫たち』に登場する、理科教師牛島春雄のモデルであることはよく知られているが、そのことも相まって、ウシマサは筆者の在学当時から生ける伝説のような教員だった。

 

 話は逸れるが、ウシマサの思い出を山崎さんに聞いてみた。当時のウシマサは若くて人気の教員だったという。地学の授業では、個人研究をして提出すると5点(満点)をくれたという。山崎さんは茅野の北大塩に親戚があったことから、そこに泊まり込んで上川の源流から河口までの流量調査をしたという。事前に研究内容を申し出ると、上流はいいが下流域は水量が多いから気を付けろと言われただけだったという。もちろん5点をもらったという。ウシマサも三澤勝衛先生の教え子の一人であったから、さもありなんというところだろうか。
 

 もうひとつどうでもいい話だが、戦後大陸から山崎さんの叔父さんが麻雀を持ち込んで来た。それをやってみたかった山崎さんは、いまのアーク諏訪(すわっチャオ)の裏あたりにあったウシマサの家を仲間と訪ね、そこで麻雀をやったという。2階で麻雀をしていると、ウシマサの御母堂が階下から「亡国の遊びはやめろ!」と大声で怒鳴ったそうだ。怒られて当たり前の話だと思うが、筆者にとっては、ウシマサにも独身時代があり頭の上がらない母親がいたということの方が驚きであった。閑話休題。
 

 山崎さんは、もう一つ重要なエピソードを話してくれた。それは奥様との出会いにまつわるエピソードである。奥様の澪子さんは56回生である。同窓会の会員名簿をみると51回生の壯一さんの入学年は1945年(昭和20年)、澪子さんの入学年は1950年(昭和25年)である。その間1947年(昭和22年)、1948年(昭和23年)の入学生はなく同窓会会員名簿では53回、54回は欠番となっている。どのように旧制中学から新制高校への移行が行われたのかがいまいち理解できないので、以下の話は山崎さんの話を元に再構成したものであるが、場合によっては年次に誤りがあるかもしれないことをお断りしておく。
 新制諏訪清陵高校となって2年目の1950年(昭和25年)に、はじめての女子生徒が入学する。それを知った山崎さんは、女子生徒の入学反対運動をしたという。男子校でなければ諏中伝統のバンカラな校風は維持できないと考えたのだろう。その主張はある意味当然とも思えるが、意外と賛同者は少なかったという。
 はじめての女子生徒は14名であったが、そのなかにのちに奥様となる吉田澪子さんも居た。反対運動までした山崎さんがいったいどうやって奥様との接点を持つに至ったのか興味津々で聞いてみた。すると山崎さんは突然旧校舎取り壊しの話をはじめた。年表で確認すると1951年(昭和26年)5月に校舎改築工事に着工し、1954年(昭和29年)4月からは全授業が新校舎で行われたとある。この新校舎とは、現在の高校校舎の前の校舎で、筆者の時代の生徒にとっては「オンボロ校舎」であったが当時は「新校舎」であったわけだ。

 明治の開校時から続く旧校舎取り壊しの話を聞いた山崎さんは、新校舎に移る前に旧校舎をピカピカに磨き上げてから取り壊しをしてもらおうと提案する。それを当時の学友会長の小川弥太郎氏(51回)に提案したところ、「それはいいな。では言い出しっぺの山崎が音頭を取れ。」と言われ、山崎さんが全校に呼び掛け徹底的に掃除をしたのだという。しかし掃除をするのはその教室を使用している生徒たちである。クラスによっては手抜きをするかもしれないということで、各クラスから2名の代表を出して、その代表団で巡視をおこなうことにしたという。当時は「環境美化委員」といった清掃担当の係がなかったので、各クラスの「保健部員」が代表になった。すると1年生には女子がいるから、当然のように保健部員は女子がなっており、そのなかに吉田澪子さんもいたのだという。はじめて澪子さんを見たときの印象を聞くと、「反対運動をしていたから、女なんかなんだ、と思っていたが、実際に会ってみると、どうも女も優秀だということが分かって来たんだ。」というのが山崎さんの答えであった。
 

 澪子さんの父親は岩手県石巻出身で東北大学の冶金(金属工学)を出て、明治電機工業という会社で働いていたが、取引先から乞われ、大阪の堺に工場を立ち上げ経営していた。母親は諏訪市四賀出身で、家は上諏訪温泉で龍東館という温泉旅館を営んでたが、東京上野東黒門町に支店があり、そちらの手伝いをしていた。それが縁あって結婚した。そのため澪子さんは、戦前は東京に住んでいた。それが戦時中に諏訪市大和に疎開して来た。壯一さんはその辺りについては言葉を濁したが、東京育ちの垢抜けたお嬢様であった澪子さんに壯一さんが一目ぼれしてしまったということなのだろう。しかし、当時の高校生である。二人の間には何事も起こらずに山崎さんは卒業していく。
 

 卒業したら就職すると決めていた山崎さんに、父親の久夫さんは家業を手伝うように勧める。しかし山崎さんはそれを断る。
 久夫氏もまた立志伝中の人である。時計王と呼ばれた服部金太郎にあこがれ、東京銀座の服部時計店に奉公に出たが関東大震災を機に帰郷し、父・常次郎氏の営んでいた山崎屋時計店に入る。1936年(昭和11年)に現在店舗のある本町への進出を果たすが、すぐに戦時統制経済のために経営が危うくなる。そんなとき奉公先であった服部時計店が危機分散のため販売・組み立ての出来る地方の時計店を探しているとの話があり、服部時計店の腕時計・懐中時計製造部門であった第二精工舎から部品提供を受け、山崎屋時計店の2階で組み立てを開始する。当時の諏訪地方の工業は東洋バルヴなどのバルブ産業と、衰退を始めていた製糸産業が中心であった。新たな産業を誘致したいという地域からの要請を引き受ける形で、久夫氏は1942年(昭和17年)に第二精工舎協力工場「有限会社大和工業」を設立、翌年には業務に専念するため山崎屋時計店を休業する。戦争が激化すると第二精工舎本体が諏訪・桐生・富山・仙台へと部分疎開を開始する。しかし終戦と同時に東京への引き上げがはじまる。この時、久夫氏はいち早く時計製造を再開し、昭和21年には諏訪で初めての時計を完成させる。それだけでなく、ありとあらゆる手を尽くし、疎開した第二精工舎工場のうち唯一諏訪工場だけが地方に留まることとなる。1959年(昭和34年)には大和工業を第二精工舎諏訪工場と合併し、諏訪精工舎とし、久夫氏はその代表取締役となる。


 壯一さんが清陵高校を卒業したのは、そんな最中の1951年(昭和26年)のことである。諏訪の工業界に確固たる地位を築きはじめた久夫氏の庇護の元でキャリアをスタートさせることを潔しとしなかった壯一さんは、久夫氏がそうしたように服部時計店の世話になる。東京の亀戸にあった第二精工舎工場で2年間組み立てを学び、その後2年間銀座の服部時計店で修繕を学ぶ。高校卒業したばかりの山崎さんは、倹約をして少しでも貯金をしたかったので背広を買わず学生服で工場に出勤したが、学ランに金ボタンはだめだと言われ、ならばと金ボタンを背広ボタンに替えて学生服のまま通ったという。
 

 山崎さんは、大学進学したのと同じ4年間を修業期間と決め、それが終わったら諏訪に戻って休業中の山崎屋時計店を再開することを久夫氏との間で決めていたそうだが、修業期間も残り3カ月となった12月31日に山崎さんは服部時計店を退職し、目黒にある眼鏡店フシミに修行に行く。
 山崎屋時計店は戦前から時計の他にレコードも売っていた。蓄音機を扱っていた関係でレコードも扱うことになり、久夫氏は上諏訪駅の保線区の鉄道員のところに行商に行っていたという。しかし眼鏡は扱っていなかった。上諏訪には以前から眼鏡のナガタがあったが、こちらは時計も扱っていた。山崎さんはこれからの時代は眼鏡も大事だと考え、諏訪に戻ったら山崎屋に眼鏡部門を開設することにし、久夫氏の了解も取り付け、服部氏に相談したところ修業をするなら目黒のフシミがいいと言われ出かけて行ったのだという。
 しかしフシミの店主は、腕は確かだが、うるさいオヤジで有名で、従業員がなかなか居つかなかったという。眼球の構造を知りたいからと屠場から豚の目玉をもらってきて解剖していたというから奇人だったのだろう。山崎さんが4月には開店のため諏訪に戻らなければいけないので3月まで3カ月間だけ修行させてほしいというと、そんなことなら来なくていいと追い返されたという。しかし、これはオヤジが偏屈というより山崎さんの申し出に無理があった気がする。それでも山崎さんは次の日から弁当を持って通って、何も言ってくれないオヤジの仕事ぶりを後ろからじっと観察していたという。すると10日目にオヤジがはじめて口をきいてくれ、それからはいろいろと教えてくれるようになったという。フシミとの関係は3ヶ月だけで終わることなく、諏訪に戻ってからもずっと交流は続き、教えを受け続けたという。


 そのフシミでの修行の最中に、山崎さんは人生最大の決断をする。元々、山崎さんは高校を卒業するときに、「25歳で結婚し、30歳までに3人子どもを作ると、50歳までに子どもが成人する」という人生設計を立てていたという。4年間の修業期間を終え諏訪に戻り山崎屋時計店を再開し眼鏡部門を開業すると、結婚の予定時期が近づく。そこでフシミに修行に行く前に、久夫氏に件の人生計画を打ち明け、結婚相手は吉田澪子がいいと思うと告げる。
 久夫氏は、1月3日にその話を聞くと、すぐに澪子さんと同級生であった壯一さんの妹さんを通じて手紙を出す。当時、山崎さんと妹さんは東京の中野に一緒に下宿していたというが、手紙の内容はそこに来てもらいたいというっものだったと言う。ちなみに、澪子さんは東京に戻って、東京農工大の学長の秘書をしており、父親の関係で府中刑務所の官舎に住んでいたという。手紙を出した後、久夫氏は奥様と2人で1月15日に東京に行き、奥様と娘さんを明治座の歌舞伎見物に追いやり、澪子さんの来訪を、なぜか屋外の電柱の陰に隠れながらずっと待ち、玄関前で声をかけたのだという。当然初対面である。その時、壯一さんはどうしていたのかと聞くと、正月3日にこの話を打ち明けたあとすぐにフシミでの修行に行ったため全く知らなかったと言う。この親にしてこの子ありというべきか、どちらも胆が据わっている。その結果がどうなったのかというと、「俺が嫁にしたいくらいだ。」と女中たちにしゃべったというくらい澪子さんを気に入った久夫氏が熱心に話を進め、そのまま結婚が決まったのだという。


 再開した山崎屋時計店は、時計、眼鏡の他、カメラ、レコード、家電なども扱い、1967年(昭和42年)からは宝飾品も扱うようになる。また1961年(昭和36年)から製造業も手がけ、1964年(昭和39年)には時計部品製造の山崎精機株式会社を設立、1965年(昭和40年)には社号を現在の株式会社ミスズ工業に変え、事業を拡大していく。


 久夫氏が亡くなったのは1963年(昭和38年)。享年58歳。病名は胃癌。諏訪精工舎代表取締役に就任してわずかに4年。働き盛りでの惜しみても余りある死であった。壯一さんが30代に差し掛かったばかりのことであった。その時、久夫氏は、奥様に対して500万円の定期預金を残されたのだが、この定期預金が、壯一さんが母校清陵に対する最初の貢献、恩返しにつながる。
 山崎さんは、母親の面倒は自分が見るから、この金は俺の自由にさせてくれと言い、寄付金として母校に差し出す。ただしそこに「清陵の理科教育振興のために使う」という条件をつける。この500万円の趣旨に、山崎さんの同級生の細川昭八氏(51回)、遠藤友義氏(51回)も賛同し、山崎さんからの寄付に重ねて寄付をし、それが現在に続く「理科教育振興基金」となる。
 公式には、「理振」は、久夫氏の「私は諏訪中学へ入学したいと夢にまで見てきたが、家が貧しくて果たせなかった。自分の子供たちが入学できたので、その夢は叶えられた。お礼の意味を込めて500万円を寄付したいので、理科教育の施設の充実に充ててほしい」という遺志によりはじまったことになっているが、寄付を久夫氏の遺志としたことも含めて全て壯一さんがしたことだったのだ。落第生であった自分、大学に行けなかった自分、しかしそんな自分の人生の基を作ってくれた清陵、その清陵の後輩たちがよりよい教育を受けられるように。「理振」は、そんな山崎さんの思いの詰まった寄付だったのだ。
 なお、「理振」は少し前までは山崎さん自身による中国ファンドの運用利益で運営していた。世間一般の基金は、定期預金の金利が高かった時代には、銀行に預けるだけで運営が出来たのでそうしていた。しかしゼロ金利政策以降それは不可能になった。今回インタビューするまで、「理振」が中国ファンドに手を出すようになったのはそんな時代からのことだと思い込んでいた。ところが、設立当初から山崎さん自らが中国ファンドで運用していたという。山崎さんは株式投資を18歳からやっていたそうだが、「株の天才」と言われた邱永漢氏の薫陶を受けるようになってから中国ファンドをやるようになったという。つまり「理振」とは、山崎さんが原資を提供し、山崎さんがリスクを背負いながら運用し、そこで得た預金金利とは比べものにならいほど大きな利潤を清陵に還元する、山崎壯一の、山崎壯一による、清陵のための基金だったのだ。筆者は、このことひとつとっても山崎さんのことを「清陵を誰よりも愛した男」と呼んでもいいのではないかと思う。


 ここまでは、これまで断片的に聞き知っていたことを今回インタビューさせていただいて確認しながら描いたものである。だから筆者はその場にいない。ここからは、筆者が実際にその場に居合わせて直接見知った山崎さんのお姿である。


 はじめて山崎さんにお会いしたのは、筆者が県教委高校教育課高校改革推進係に勤務していた2006年(平成18年)のことである。この年の3月、県教委は高等学校改革プラン実施計画を策定し公表するが、計画を強引に進めようとする田中知事への反発から反対運動が全県で巻き起こり収拾のつかない事態となる。混乱は8月の知事選で田中知事が敗北するまで続く。知事選の結果を受けて県教委は、地域の理解の得られていなかった計画を凍結する。
 そのため高校改革推進係は全く仕事がなくなってしまう。担当校へお詫びに行くことも許されず、登庁しても何の予定もなく、日がな一日ネットで勝手に決めたテーマで全国調査をして過ごしていた。地域との合意があったいくつかの計画については凍結下であっても水面下の動きがあったが、諏訪地域は岡谷南岡谷東両校の統合が白紙となってからは本当に何の動きもなくなってしまう。当時の高校教育課長は関哲夫氏であったが、高校教育課長となる前は諏訪清陵高校の校長であった。当然、諏訪地域の再編計画には深くかかわっていた。そのため諏訪地域だけが何の動きもないことをまずいと感じたのだろう。諏訪地区出身者の筆者を呼び出して「何か諏訪地区の改革案を考えるように」と特命を与えた。この場合の改革案とは、諏訪地区の高校を1校減らす案ということである。しかし、岡谷2校の統合を巡って大揉めに揉めた直後である。そんな都合のいい案などあるはずがない。あったらとっくにやっている。そこで筆者は、どうせ本気で期待してのことでもないだろうと、出来るはずのないトンデモ案を2つ捻りだして課長席に持っていった。
 ひとつ目の案は、富士見高校を山梨県に移譲して諏訪の高校を1校減にするという案だった。この前年、田中康夫県政下で、島崎藤村の出生地である馬籠村を含む木曽郡山口村と岐阜県中津川市との越県合併を認めるというとんでもない政治判断があったが、この案はそこから着想を得た。富士見町は、武田信玄が諏訪氏の姫を嫁に迎えるにあたり甲斐国から持参金として割譲された地域である。元々は山梨県だったのだから、富士見高校を富士見町と一緒にお返しするというのはどうですかと提案した。勿論まともに聞いてもらえるはずもなかった。
 もうひとつの案が、諏訪清陵高校を誰かに買ってもらうという案だった。これも実例があった。ちょうどこの年に滋賀県の守山市立守山女子高等学校が学校法人立命館に移管され立命館守山高等学校となっていた。私学が公立高校を買ったのだ。この例を知っていた筆者は、元々諏訪には東海大学付属第三高校があるが再編とは無関係だった。清陵を私立高校すれば県立高校1校減という目的は達成できますよと提案した。もちろん即座に却下されると思っていた。ところが意外にも関課長は食いついて来た。その時、関課長の口から出たのが山崎さんの名前であった。
 聞くと、清陵高校の校長時代に、端艇大会で使うボートが壊れてしまい大会を開催できない事態になってしまったという。当時端艇大会で使っていたのはフィックス艇という漕手のシートがスライドしない漕手が6人の旧型のボードだったが、その頃はもう製造されておらず、修理をすることも出来なかった。新式の艇を買えばいいが、もちろん学校にはそんな金を急に用意することなど出来ない。その時、「端艇部OBのヤマソウさんに相談してみたらどうか。」というアドバイスがあり、早速来校してもらい相談したところ、「校長さん電話を借りるよ。」と、校長室から懇意の同窓生に、自分はいくら出すから、お前はいくら、お前はいくらと次々電話を掛け、「おい、校長さん集まったぞ。」とその場で新艇購入費用を集めてしまったのだと言う。この話を山崎さんに確認したら、そういうこともあったかなあとの返事であった。
 関課長は、その話を引き合いに出して筆者に「山崎さんなら買うと言うかもしれない。公式に出来る話ではないから、諏訪に帰ったら個人的に山崎さんとコンタクトを取って聞いてみてくれ。」と言う。瓢箪から駒が出てしまった。しかし当時の筆者には山崎さんと何の接点もない。困ったあげく、諏訪で会社を経営していた叔父の石城祐吉(62回)にコンタクトを依頼した。後で聞くと叔父もその時点では山崎さんと面識はなかったという。それでも何とかコンタクトを取り日時を設定してくれた。

 

 もう何月かも覚えていないが、ある週末の午後、筆者は叔父とともに山崎さんの経営するホテル浜の湯を訪ねた。筆者は恐る恐る清陵高校を買う気はないかという荒唐無稽な話を切り出し、親子三代が教わるウシマサのような名物教師は県立高校ではもう無理だが私学ならば雇えるなどと様々なメリットを必死で並べ立てたのだと思う。すると山崎さん次第に前のめりになり、筆者の話が終わるか終わらないかのうちに「いくら出せばいい。」と言った。そこからは買う前提の質問を受け続けた。しかし、細部まで詰めた話ではない。返答に困っていると、山崎さんは「ひとつだけ条件がある。清陵を男子校に戻してもいいか。」と畳みかけて来た。この人は、清陵を買えるものなら買いたいと本気で思っていると知ったとき、話を持ちかけたのはこちらなのに、その迫力に筆者は圧倒された。その日の結末をよく覚えていないのだが、お互いに持ち帰ってさらに検討を進めるということになったのだと思う。
 どれくらい後だったか、山崎さんから叔父を通じて呼び出しがあった。再び浜の湯を訪ねると、そこには山崎さんと、元・諏訪信金理事長で同窓会長も務めた宮坂久臣氏(49回)と元・茅野市長で後に長野県教育委員長、同窓会長を務めることになる矢崎和弘氏(68回)が待っていた。山崎さんは、この前の話をこの二人にあらためてしてほしいと言われた。二人は筆者の話を最後までしっかり聞き、いくつかの質問をしたあと山崎さんに、「この話は筋が悪い。」「イニシャルコストは何とかなっても、ランニングコストを負担しきれない。」と冷徹に言った。それを聞いた山崎さんは、「やはりそうか。」と自分に言い聞かせるように呟き、それでこの話は沙汰止みとなった。しかし、この時以来、山崎さんは「清陵を本気で買おうとした男」として筆者のなかに強烈に印象づけられることになる。

 

 次に山崎さんとお会いしたのは、2011年(平成23年)のことであった。当時の筆者は清陵高校教頭3年目、中学棟の建設場所についての県担当者との折衝が暗礁に乗り上げ、校長室で、佐藤校長、佐倉教頭と3人で頭を抱えることとなる。そのとき頼ったのが山崎さんだった。筆者には「清陵を本気で買おうとした男」の強烈な記憶がある。ここは関課長ではないが、「困ったらヤマソウさん」で行くしかないと佐藤校長、佐倉教頭に話をしたと思う。
 その後の顛末については本編や、第2編での松下勲先生(59回)が執筆された「母校への附属中学校(中高一貫教育課程)導入に係る同窓会の取組み」、第3編の片倉隆幸氏(78回)の寄稿文にそれぞれの立場から言及されているので、ここでは繰り返さない。しかし、ここでも山崎さんの誰よりも熱い母校清陵への思いが、開くとは思えなかった扉を押し開いてくれたのだと筆者は思っている。


 ここには、本編と重複しない話、どちらかというと公式的にはあまり表に出さない方がいいのかもしれない類の逸話を敢えて記しておこうと思う。山崎さんにご相談したあと、筆者と建築家の片倉さん(実は同級生なので以下敬称は略させてもらう)は何度か山崎邸に伺った。呼び出されたことも、こちらから押し掛けたこともあったと思うが、かなりの回数お邪魔した。その中で、片倉の「新時代の教育を担う哲学を持った校舎案」が練られていくのだが、ある段階で、図面だけではイメージが湧かないし説得力も弱いから模型に出来ないかという話になった。その話を片倉に振ると顔色が曇った。聞くと、精密な模型を作るとかなりな金額がかかるという。ここまでもイメージを図面に起こすにあたって片倉はかなり無理をして自分の建築事務所の業務と並行して取り組んでいた。さらに模型までということになると、いくら山崎さんからの頼みだからといっても引き受けられない。どれくらい費用がかかるのかと聞くと、ちっとやそっとの金額ではなかった。筆者は、模型はあきらめるしかないと思った。
 

 ところが次に山崎邸にお邪魔すると、山崎さんから「模型の金は澪子さんが出すって。」と言われた。私どもがお邪魔すると、澪子さんはお茶の世話などをしてくれながら同じ部屋のなかに居たが積極的に話には加わらなかった。しかし話は全部聞いていたのだ。そして、男どもが模型製作をあきらめようとしているのが我慢ならなかったのだろう。私どもが帰ったあと、澪子さんは壯一さんに、「模型のお金は私の貯金から出す。」と宣言したのだという。壯一さんもすごいが澪子さんもすごい。さすが清陵最初の女生徒14名のうちの一人というべきか。
そうやって完成した鉄骨造4階建て案を形にした模型は、のちに山崎さんと県教委の教育次長が談判する際に持ち出される。筆者はその場に居なかったのだが、片倉によると教育次長は、「こんなものまで作って!」と激昂したという。片倉に言わせると、怒ったのは清陵案の方が県の示した案よりはるかに優れていたからだということになる。
 その模型がどうなったかというと、現在は中学棟の副校長室にある。多くの人は完成した中学棟の模型と勘違いしているので4階建てであることに気づくと驚く。それは、実現しなかった「新時代の教育を担う哲学を持った校舎案」の形見なのだ。そう思って、あらためて見ていただければと思う。


 中学棟建設に関しては他にもエピソードがある。県担当者は、学校校舎は鉄筋コンクリート造でなければならないと譲らず、結局はそうなってしまったのだが、片倉によれば、鉄骨造にすれば空間づくりの自由度が増し、建設費用も安くなり、同じ予算で4階建ての校舎を建設できるとのことであった。ただし鉄骨造だと夏熱く冬寒いが、これも今はいい断熱材があるので何とでもなるとのことであった。
 これを聞いた山崎さんは単身で動く。これは今回のインタビューで知ったことなのだが、山崎さんは県内の高校で鉄骨造の校舎がないかを調べ、岡谷南高校に鉄筋コンクリート造と鉄骨造の二種類の校舎があることを突き止める。岡谷南は諏訪湖畔のあまり地盤のよくないところに建っているから、校舎の重量を少しでも軽くするために鉄骨造を取り入れたのだろう。山崎さんは岡谷南高校に出かけて行き、勝手に校舎に入り込み、通りがかりの職員を捕まえて、「鉄筋の校舎に比べて鉄骨の校舎の方が過ごしにくい点はあるか?」「鉄筋と鉄骨に差を感じることがあるか?」などと聞いて回ったという。その結果、「特にない。」「差はない。」といった回答を得て意気揚々と引き上げて来たのだという。これを山崎さんは田中正吉高校教育課長と面会した折に持ち出し、なぜ鉄骨造ではだめなのか説明せよと迫ったという。
 更に清陵の主張がなかなか県に認めてもらえないことに業を煮やした山崎さんは、いったいこの決定は誰がどこでしているのか、どこかに黒幕がいるのではないかと探るうちに宮崎和順氏の存在に行き当たる。宮崎先生(宮崎氏はすでにお亡くなりになっているが、筆者は面識もあり、尊敬もしていたので先生と呼ばせていただく)は、屋代高校の卒業生である。東京教育大学を卒業後、数学科の教諭として県内各校で勤務された後、松本深志高校校長、長野県教育委員会高校教育課長などを経て、教育長、教育委員長を歴任され、退任後は母校屋代高校の同窓会長を務められた長野県教育界の重鎮である。


 山崎さんは、この高校教育に大きな影響力を持ち、清陵に先んじて中高一貫校となった屋代高校の同窓会長でもある宮崎和順氏と直接話すことが出来れば物事が進むに違いないと考え、窪田孝美先生に相談する。「同じ数学科ならば面識があるのではないか。」と聞いたのだそうだ。すると窪田先生は「知らないどころではない。毎月一杯やっている。」と言う。それを聞いた山崎さんは、「よし分かった。いまからすぐ自宅まで連れていけ。」と窪田先生と車で宮崎先生のご自宅に押し掛けたのだそうだ。
 そこでどんな話をしたのですかと聞くと、清陵の中高一貫教育をどう見ているのか聞いて話を詰めたという。そして宮崎先生から「屋代の中高一貫は、地理的に長野高校と上田高校の間にある屋代高校が頑張ることで、長野・上田両校を奮起させることが目的である。しかし清陵は理数教育に優れ独自の道を歩んで来た高校だ。だから屋代のことなど気にせず独自路線で大いに頑張ってもらいたい。」といった趣旨の話を引出し、ではそうさせてもらいますと引き上げてきたのだという。

 

 この話は、今回初めて聞く話であった。もし当時聞き知っていたら、佐藤校長と全力で阻止しようとしたであろう類の話である。そのことがその後の展開にどのように影響したのかは分からない。しかし恐るべき行動力であり胆力であると舌を巻く。


 ここで突然、窪田孝美先生の名前が出てきたことに驚かれた方もいるだろう。実は筆者も驚いた。筆者は、本編を窪田先生の物語として描き、この結語を山崎さんの物語として描こうとしていた。今回のインタビューをするまで、このお二人に面識があることさえ知らなかった。当然、窪田先生との関係について聞いてみた。
 するととんでもない話が出て来た。次男の健二さんが北海道大学医学部を受験する際に窪田先生に特別に数学を見てもらったのだという。健二さんはどうしても北海道大学に入りたくて、名古屋大学との併願という話にも耳を貸さず、北大一本鎗でしかも現役合格を熱望していたため、窪田先生に個人授業をお願いしたのだと言う。しかし調べると、健二さんの入学は1976年(昭和51年)、窪田先生の清陵赴任は1977年(昭和52年)だから接点が感じられない。その点について聞くとさらに驚くべきことが分かった。


 窪田先生は、清陵の他の先生を引き連れて、毎週のように宵の口から訪問しては山崎邸にある高い酒を飲んでいたのだという。しかし山崎さんはほとんどアルコールが飲めず、さらに当時は仕事が忙しく帰宅はいつも深夜だったという。では誰が窪田先生たちのお相手を務めたのかと言えば、お酒が強く高い酒を集めていた澪子さんだったと言う。山崎邸の前まで来ると、窪田先生は小石を窓に投げる。その音で澪子さんは窪田先生の来訪を知ったのだと言う。
 山崎さんの話では、窪田先生は東芝だか日立だかの民間企業を経験してから教員になったそうだ。教員の世界しか知らない他の教員とは感覚が違ったのかもしれないが、常識では考えられない教員と保護者の関係だ。そしてそんな関係は窪田先生が清陵を去る1985年(昭和60年)まで続き、それ以降そんな風に山崎邸に酒を飲みに来る教員はなかったという。
 どんなきっかけがあり、そんな関係が生まれたのかと聞いたが、山崎さんは知らないと言う。生徒の家に毎週のように来てただ酒を飲んでいく教員。それを快く受け入れる保護者。そんな不思議な山崎家と窪田先生の関係があって、「EVAHEART」につながる健二さんの北大医学部進学も、宮崎和順先生と山崎さんの談判もあったのだと思うと、何とも不思議な因縁を感じる。

 

 さて、筆者が山崎さんからお聞きした話は以上である。最後に山崎さんに、現役の清陵中高生に何かメッセージはありますかと聞いてみた。山崎さんはしばらく黙ったままであった。「もう全てお話されたということでよろしいでしょうか?」と筆者が口を開きかけたとき、山崎さんが静かに語りはじめた。


 「質実剛健」、それが自分の根底にはある。自分は大学に行かなかった。5年間落第生だった。でも最後の1年は、本当にやりたい勉強をさせろとわがままを通して最後はクラス5番で卒業した。山崎さんはインタビューの最初にお聞きした話を繰り返されたあと、「そして、それが自分の自信になったんだ。」「こんな俺でもやればできると思えた。」「数学を2科目やるから、英語はやらないと言い出したとき、職員会で大問題になったが、結局は許された。そういうことが許される学校だった。そのことには感謝しかない。」としみじみと言われた。

 「それともう一つ。やはりボートのことだ。遠征費を出してもらえないと分かったとき、アイスキャンディを売って自分たちで資金を作った。それは勉強ということから言ったら余計なことかもしれない。だがそういう余計なことが後々の力になったんだ。」
 

 これが山崎さんからの在校生へのメッセージである。ここまで書き進めて来て、一番感動しているのは多分筆者自身だ。清陵の同窓生にこんなすごい人がいた。そのことを現役生の皆さんに知ってほしいと心から思う。山崎さんは105歳まで生きると言う。同期生全員見送って最後に自分が逝くという。「25歳で結婚して…、」と人生設計を立てた山崎さんのこれが最後の人生設計なのだろう。清陵を誰よりも愛した男は、その最後の10年で私たち後輩にさらにすごい何かを見せてくれるのかもしれない。


 清陵の現在に至る30年史を、「窪田孝美先生の願いがついに実現した物語」として描いた。これは第5章の最後に書いたことの繰り返しになるが、この30年の清陵の歴史は、古き良き時代が終わったあとの苦難の歴史であった。かつての輝きを失いつつあった清陵を立て直すための切り札が中高一貫教育であり、SSHであった。窪田先生の想いを継ぐ多くの者たちの手により「SSHを中核に据えた中高一貫校」が完成し、その希望に満ちた将来を展望することによってこの物語は幕を閉じる。そして大事なことは、その中核には常に「三澤勝衛先生の教育」があったということだ。つまりこの30年は、三澤教育の教えを墨守し、それをよりよい形で未来に受け渡すため清陵が脱皮しようともがき苦しんだ30年でもあった。そしてその目標はいま達成された、と筆者は信じている。
 そのようなものとして、この30年の歴史を綴りながら、筆者にはひとつだけ心に掛かり続けたことがあった。それは、窪田孝美先生も、三澤勝衛先生も、「諏訪人」ではないということであった。窪田先生は上田市の出身、三澤先生は更級郡更府村(現在の長野市信更町)出身である。諏訪の人間にとっては、「来たりもの」である。その二人が、諏中・清陵教育の背骨を作ったと言ったら、面白くないと思う方がいるかもしれない。
 筆者は、そのことを、次のように考えることで納得しようとした。「諏訪人」は、優れたものは何でも取り入れる。諏訪オリジナルであろうがなかろうが、ひとたびその価値を認めたら、正当に評価し、全幅の信頼を置き、その考えに従う。「諏訪人」のそういう気質があったればこそ、三澤先生も窪田先生も諏訪の地で活躍することができたのだ、と。
 しかし、そうは言っても、清陵を「来たりもの」がつくった学校として描いて終わってしまうのはどうも癪だ。そこで、三澤先生、窪田先生が作ったにせよ、その諏中・清陵に学んだ教え子が、何を学び取り、それを後の人生にどう生かし、どう清陵に恩返しをしたかを描くことでバランスを取ろうとの思いから山崎壯一さんの生きざまを紹介し皆さんと共有したいと思った。ところが、インタビューを進めるなかで、窪田孝美先生と山崎壯一さんはつながってしまった。教え与える側も、学び受け取る側も、「清陵」というひとつの大きな円環の中にいたということなのだろう。不思議な因縁を感じつつ、ここで「大団円」とし、大きなピリオドを打たせていただこうと思う。

 
 ほぼ書き上げたところで筆者は石埜穂高氏(78回)の「清陵DX企画書-『生涯清陵人』構想」の存在を知った。そこには、「清陵DXプロジェクト」により、母校の自反の精神と、諏訪人の起業家精神に立ち戻り、「同窓生を結びなおす」「在校生と卒業生を結ぶ」「清陵生と諏訪を結ぶ」を3つのコンセプトとして推進し、それにより、入学時に生まれた同窓生の絆が一生涯続く、「生涯清陵人構想」を実現させる、とあった。ここでの『生涯清陵人』とは、DXを通じての清陵生ネットワークとそれにより生じるコネクションのことを指しているのだろう。しかし、もしそれを生身の人間の生きざまとして可視化したらどうなるであろう。それは『山崎壯一』という姿をしているのではないかと思う。そんなことを言うと山崎さんは、中高一貫教育について「自分たちが最初の中高一貫校経験者だった。」と自慢げにおっしゃっていたように、「そんなむつかしいこと言わないでも、俺は最初っから『生涯清陵人』だった」と高笑いされるかもしれない。

 

結語
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